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「北大剣道部125年史」を発行

北大剣友会部史 編纂委員長 福田成志

現在の札幌時計台(旧札幌農学校演武場)は札幌農学校の中央講堂として入学式、卒業式などに使われるとともに、演武場として兵式訓練や体育の授業に使われていたが、明治25年6月、学生数の増加により演武場だけでは手狭になり、東側空き地に撃剣柔術道場が建設された。部創設の起点をいつにするかは部史編纂の重要なポイントであるが、「北大剣道部125年史」では、北大剣道部発祥の地を現在の札幌時計台とし、創設の起点を撃剣柔術道場が建設された明治25年6月とした。

札幌農学校は人口が2,600人に過ぎなかった札幌に、米国のマサチューセッツ農科大学をモデルにした校舎、寄宿舎が次々に建設され、明治9年8月に開校した。勿論、建物ばかりではなく、カリキュラムも教科書も同じようなものが使われた。実質的な教育責任者はマサチューセッツ農科大学の現職学長ウィリアム・S・クラークであり、他の2人もこの大学を卒業したばかりの青年教師であった。学生は第1期生が24人。勿論、授業は英語で行われた。つまり、建設間もない札幌に卒然として米国の大学ができたと思えばよい。学生のほとんどが武士階級だったとはいえ、剣道をする環境では全くなかった。それが開校16年後の明治25年に撃剣部が創設されるのである。何故こうした学校で撃剣部なのか。部史編纂にあたり最初にぶつかったのがこの疑問であった。

明治2年、明治政府はロシアの樺太南下に対応するため、札幌に北海道開拓使を設置し本格的な北方経営に乗り出した。当時の開拓長官は後に総理大臣となる黒田清隆である。明治5年から10年間の開拓使予算総額は1千万円で、年間百万円という額はこの時期の国家予算の約1割にあたる。如何に明治政府が北方問題を重要視していたかわかる。この豊富な予算をもとに札幌農学校が作られ、アメリカ式教育が開始されたのである。しかし、この10年計画が満期に近づいた明治14年、北海道開拓の激震とも言うべき「開拓使官有物払い下げ事件」が勃発した。この事件は中央政府をも巻き込み、いわゆる「明治14年の政変」に発展する。これにより黒田は開拓長官を辞任し、開拓使は廃止され、開拓使10年計画は終焉を迎えた。今までの北海道開拓の原動力はすべて吹き飛んだのである。勿論、札幌農学校も大きな打撃を蒙ることになった。

開拓使の廃止に伴い、札幌農学校は農商務省北海道事業管理局管轄となり、予算は半減した。外国人教師は順次解嘱され、教授陣には海外留学から帰国した卒業生が取って代わった。そして明治27年には文部省直轄になるが、このことは札幌農学校の基盤が安定した一方で、アメリカ色が完全に払拭され日本の高等教育機関の一つになったことも意味している。当時の日本は国を挙げて殖産興業、富国強兵に邁進し、ついに明治27年日清戦争に突入した。札幌農学校撃剣部はこうした時代背景の下で誕生したのである。

「北大剣道部125年史」は、125年を貫く骨格に「道場」を据えた。道場の変遷を辿ることによって、それぞれの時代を生きた青春群像が描けると考えたからだ。学生は授業が終わると道場に集まり、先生・先輩の指導を受けながら、稽古に励んだ。北大の学生は道外からの出身者が半分以上を占める。そうした学生たちにとっては道場を中心にした共同体は特別の意味を持つ。また、自然豊かな北大構内に建てられた道場は生涯忘れられない思い出の場所でもある。骨格を「試合」にし、その戦績を辿りながら125年を紡ぐという方法もあったが、それだけでは札幌という地でそれぞれの時代を送った青春群像は描けない。そのためにはどうしても「道場」という舞台が必要だった。

この青春群像を構成する名簿は部史には欠かせないものであるが、名前だけの羅列は記録的な意味を除けば無味乾燥である。そこで戦前はやむを得ないとしても、戦後については卒部年次ごとの「写真による名簿」とした。つまり、出来るだけ学生時代の集合写真と現在の集合写真を対比させ、そこに名前を入れてもらうことにした。しかし、戦後剣道が再開された昭和28年入学生、即ち昭和32年卒部生から平成27年卒部生までの58年分と現役生4年を含めると62年分が果たして全部集まるのか、また集まったとして支離滅裂なことにならないか不安であった。結果的には杞憂だったのであるが、これが意外な副次的効果をもたらした。各年代は、卒業以来音信が不通だった同期にも連絡を取り合い、部史編纂の協力を依頼したのである。これがOB・OGの半数が部史を購入することに繋がり、寄付金を含めると当初予定した倍の金額が集まった。加えて、後援会費の増加にも結び付いたのである。

125年を俯瞰的に眺めてみると実に様々なことがあった。例えば、明治の終わり頃、当時小樽に住んでいた新選組の永倉新八が、学生の依頼に応じて形の指導のため北大道場を訪れている。70歳の半ばと高齢だったため家族は反対したが、若い人のためなら、と無理を押して出て来たらしい。最後に真剣を抜いて「さあ、諸君、よく見てなさい。人を斬るときはこうして斬る」と大上段に振りかぶり、振り落とすと同時に老齢には勝てず、そのまま道場に倒れてしまったという。このエピソードは栗賀大介が「新撰組興亡史」に、また池波正太郎が「聞書 永倉新八」に孫から聞いた話として紹介している。

最後になりますが、「北大剣道部125年史」編纂にあたり、東京学連剣友連合会の先輩方から沢山の情報、アドバイスを頂いたことに改めて感謝申し上げます。東京学連剣友連合会がこれからも益々ご発展されることを心から祈念しております。(昭和49年卒)

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